好きで生きてるわけじゃない。
好き好んで、産まれてきたわけじゃない。
恵まれていることと、幸せなことは違うんです。
恵まれていると、幸せそうに見えますか?
見えますよね、きっと。
恵まれてはいると思います。
でも、恵まれていなくていいので、幸せをください。
生きていることを幸せだと思える、産まれてきてよかったと言える、そんなことができる人間がいるということ、それは私にとって驚愕でした。
希望とか生き甲斐とか心の支えとか。
衣食住を与えられても、それらのない人生は、苦痛だと思いませんか?
やっぱり、飼い殺しなんです。
衣食住与えられて、税金払ってもらって、最低限以上の生活はしている?
永遠の安寧だけを望みながら、生きている限りそれは手にできないとわかって、生き続けることを強要されていることは、最低限以下のように感じます。
身体が生きているだけで、心は殺され続けている。
私は、私の心を殺しながら、殺し続けるしかなくて。
不理解の苦痛を知っています。
けれど、理解などできるはずもないとも知っています。
心を寄せること、思いやることはできても、同じ苦痛を持たない人間には絶対に理解できない。
それは、私にはお幸せな人間の気持ちが理解できないのと同じこと。
お互い、理解しようがないんです。
そんな心理になったことなど、ないのですから。
医師であっても、理解はできないと思います。
学んだだけで、そんな心理状態になったことなど、きっとないのですから。
私が苦痛を訴え続けても、未遂をあんなバカなこと、などと言える無神経さ。
思いやることすら、しようとしませんでしたね。
私の気持ちを、想像すらしませんでしたね。
暗い地面を這いずりながら、明るい世界で笑っているような他人を見ながら、傷だらけで苦痛しかなくて。
そんな、世界を歩かされている。這いずり回っている。
精神の不幸は、身体の不幸を越えると思うのは、私の知る不幸が精神のものだからですか?
骨がひしゃげるレベルの怪我は、身体の不幸と言えますか?
泣きもせず、痛いと訴えることもせず、耐えて耐えて、骨は今もひしゃげたまま。
その苦痛は、それでも、きっと精神の不幸とは比べようのないもので、精神の不幸が不幸過ぎて怪我が痛いなんて言えなかった。