希死念慮憑きの独り言。

精神を病んだ人間のダークサイドです。鬱々しているので、オススメしません。

精神的な居場所。

この家には、精神的な居場所がない。
つくづく、そう思った。

精神的に満たされないから、虚無感を埋めようとして、物が増えていく。
けれど、物質的に豊かになろうとも、精神的な豊かさが得られるわけではなく。

私は、いいこでいないといけない。
それは、親にとって都合のいいこ。
不平不満を口にせず、親の欲求を満たし、親が必要とする時にだけ現れるような。
いつも、邪魔にならないように、私は独り、自室に閉じ籠る。
自室で孤独にただ耐え続けているだけの私を、親は思いやらない。
孤独だと、孤独が辛いと、私が感じていることなど、きっと思いもしない。

自分たちさえ良ければ、それでいい人たち。
その自分たちの中に、私は入っていない。
両親は、自分たちふたりが良ければ、それでいい人たち。
自分たちがお幸せなら、私もお幸せだとでも思っているかのように、私の苦痛には見向きもしない。
苦痛を訴えれば、無視をするか、考え方がおかしいと非難される。
そんな考え方になったのは、私のせいですか?
幼少期、私に私自身は大事なものだと教えましたか?
示しましたか?
大切にされている実感などなかったです。
大切にしていましたか?
独りでも平気そうにしていたからと、放っておいただけではないですか?

記憶にある感情は、迷惑を掛けてはいけない。
感情カテゴライズができず、訴える手段も持たず、私が辛いと母も辛いと思っていたがために、平気そうに振る舞っていた。
さみしかったです。
私、独りでいるの、どうしようもなくやるせなくて、嫌でした。
けれど、嫌だとは示せなかった。
だから、わからなかったんですよね。

私は、他人の痛みを自分の痛み以上に痛いと感じる子供でした。
負の感情全てにおいて、そうであると思っていた子供でした。
だから、私が辛いと、他のひとはもっと辛い思いをすると感じていたんです。
だから、他のひとに辛い思いをさせまいと、自分の辛さは押し殺して平気そうに振る舞っていた。

「人の不幸は蜜の味」が最も理解できません。
「我が身可愛さ」も理解できません。
でも、世の中のひとは自分が1番大事で、私が必死に他人を守ろうとしても、気付くことすらないのだろうと。

水泳の授業で、コンタクト保存容器の蓋を忘れた、というひとから保存容器を預かりました。
体操ができなかったために、教師に叱られました。
私には非がないにもかかわらず、不条理なことに叱られました。
彼女は、私を助けませんでした。
私は彼女のことを言いませんでした。
「我が身可愛さ」とやらで、私はスケープゴートにされました。
授業が終わり、保存容器を返す時に、会話があったかは覚えていません。
私が逆の立場だったら、絶対に名乗り出て、非のないどころか自分のために保存容器を持ってくれている彼女を助けたと思います。
私にとっては、それが当たり前です。
自分の当たり前を他人に強要するような学生ではなかったとは思います。
だから、助けなかったことを、責めたりしなかったとは思います。
彼女に悪い印象が残っていないことから、顔色伺いで何も言えなかったわけではないとも思います。

「我が身可愛さ」で、私を虐げる側に加担した人たち。
いじめの話を見聞きして、そんなところに思考が至りました。
どこにいっても虐げられてきた。
「いじめられる奴はどこにいってもいじめられる」を体感してきた。
理由は、きっと虐げられる人間は虐げられるなりにしかならないから、なりようがないから。